ダイバーズウォッチというのは、不思議な時計です。
腕に巻いている人の大半は、一度も海に潜らない。
それでも私たちは、回転ベゼルの手触りや分厚いケースに、どこか頼もしさを感じてしまうんですよ。
そのダイバーズの世界の、さらに奥の奥にあるのが「飽和潜水用」と呼ばれる時計たちです。
深海で何日も働くプロのために作られた、いわば時計界の重装備。
普段使いには明らかにオーバースペックですが、だからこそ「ここまでやるか」という作り手の本気が詰まっているとも言えるでしょう。
本稿では、飽和潜水という特殊な世界の話から、それに耐える時計の見分け方、そして私が一本選ぶならと考える名機まで、順を追ってお話ししていきます。
目次
そもそも飽和潜水とはどんな世界か

画像引用:ロレックス 公式サイト
飽和潜水用の時計を語るには、まず飽和潜水そのものを知っておく必要があります。
これがなかなか想像を超える世界でして、知れば知るほど、時計に求められる性能の意味が腑に落ちてくるはずです。
ここでは潜水方法の仕組みと、そこで時計を困らせる「ある気体」の話をしておきましょう。
深海で暮らしながら働くという潜水法

飽和潜水は、石油掘削の海洋プラットフォームや海底ケーブルの敷設といった、深い海での長時間作業のために編み出された潜水方法です。
普通の潜水では、深く潜るほど体に溶け込むガスが増え、浮上のたびに時間をかけた減圧が欠かせません。
これを毎回やっていては、深海での作業はとても回らない。
そこで発想を逆にして、体内のガスが溶け込める限界、つまり「飽和」の状態まで加圧してしまい、作業が全部終わってから一度だけ減圧する、というのが飽和潜水の考え方なんですよ。
ダイバーは船上の加圧された居住区画で寝起きし、ダイビングベルと呼ばれる小さなカプセルで作業現場と行き来します。
水深は200mを超えることも珍しくなく、気圧も温度も呼吸ガスの配合も、すべて管理された中での仕事です。
人間ですら機械に管理されて暮らす環境ですから、腕の時計にも相応の覚悟が求められる、という次第です。
時計を困らせるヘリウムという厄介者

飽和潜水で時計がもっとも手を焼くのが、呼吸ガスに混ぜられるヘリウムです。
ヘリウムは分子がとても小さく、時計のパッキンのわずかな隙間からでも、時間をかけてケースの中へ染み込んでいきます。
加圧された環境にいる間は何も起きません。
問題は、作業を終えて減圧するときです。
外の圧力が下がっていくのに、ケースの中に溜まったヘリウムはすぐには抜けてくれない。
その結果、内側から押し出す力が勝ってしまい、最悪の場合は風防が弾け飛ぶことすらあるんですよ。
水圧という外からの力には強くても、中からの圧力には弱い。
これがダイバーズウォッチの意外な弱点であり、飽和潜水用の時計はこの一点に真正面から向き合って作られています。
普通のダイバーズとの違いは、突き詰めればここに集約されると言ってよいでしょう。
飽和潜水に耐える時計の見分け方

画像引用:オメガ 公式サイト
では、店頭やカタログで飽和潜水対応の時計を見分けるには、どこを見ればよいのか。
防水の数字が大きければそれでよい、というほど単純ではないのが面白いところです。
私が確認するようにしているポイントを、四つに分けてご紹介しましょう。
ヘリウムを逃がすか、そもそも入れないか

ヘリウム対策には、大きく分けて二つの流儀があります。
一つは、ケースサイドに「ヘリウムエスケープバルブ」を設け、内圧が高まったら中のガスを外へ逃がしてやる方法です。
ロレックスのシードゥエラーやオメガのシーマスター系が採用している、いわば王道の解決策ですね。
もう一つは、ケースの構造とパッキンを徹底的に作り込み、そもそもヘリウムを中に入れないという考え方です。
セイコーのプロフェッショナルダイバーズがこちらの代表で、バルブという「穴」を増やさずに済む潔さがあります。
どちらが優れているという話ではなく、作り手の哲学の違いと言ったほうがしっくりくるでしょう。
カタログに「ヘリウムエスケープバルブ搭載」あるいは「ヘリウムガス対応」の記載があるかどうか。
まずはここが、飽和潜水用かどうかを見分ける最初の関門になります。
[nlink url=”https://www.rasin.co.jp/blog/escape-valve/”]防水性能のケタがひとつ違う

一般的なダイバーズの防水性能は、200mや300mが目安です。
これでも街中ではまずお目にかからない水圧ですが、飽和潜水用となると500m、1000m、なかにはそれ以上という数字が並びます。
ここで覚えておいていただきたいのは、数字の大きさがそのまま「その深さまで潜れる」という意味ではない、ということです。
防水性能は、あくまでケースがどれだけの圧力に耐えられるかを示す試験上の値なんですよ。
ただ、それだけの余裕を持たせるために、ケースは分厚く、風防は厚く、裏蓋やリューズの作りも頑丈になります。
その結果として生まれる、手に取ったときのずしりとした重みと安心感。
これこそが飽和潜水用ダイバーズの持ち味であり、所有する喜びでもあると私は感じます。
規格の裏付けを確かめる

ダイバーズウォッチには、名乗るための基準がきちんと定められています。
国際規格の「ISO 6425」は、少なくとも100mの潜水に耐えることを前提に、暗所での視認性、逆回転防止ベゼル、耐磁性、耐衝撃性、塩水への耐性などを細かく求める規格です。
さらにこの中には、飽和潜水向けのダイバーズに対する追加の試験も設けられています。
参照サイト:一般社団法人 日本時計協会
日本には、このISO 6425をもとに作られた「JIS B 7023」があります。
こちらは空気潜水用と、ヘリウムなどの混合ガスを使う飽和潜水用とで種別が分かれており、後者ではガスに対する耐性や減圧時の安全性まで確認されます。
参照サイト:一般社団法人 日本時計協会
規格に適合しているということは、メーカーが自信を持って性能を保証しているということ。
見た目がいくら勇ましくても、この裏付けがあるかどうかで、道具としての信頼度はまるで違ってくるんですよ。
「HE-GAS」の刻印に宿る誇り

飽和潜水対応の時計には、文字盤や裏蓋に「HE-GAS DIVER’S」などと刻まれているものがあります。
これはヘリウムガス潜水に対応した設計であることを示す表記で、いわばプロフェッショナルの身分証のようなものです。
普段は誰に見せるわけでもない裏蓋に、そっと刻まれたこの一文。
それを知っているかどうかで、時計の見え方が変わってくるのが面白いところでしょう。
中古で探す場合にも、この表記は飽和潜水用かどうかを判断する手がかりになります。
似た顔つきのダイバーズでも、刻印の有無で仕様がまったく違うことがありますから、購入前には裏蓋まで確かめておきたいものです。
小さな文字ですが、そこには「この時計は深海を想定して作られた」という作り手の誇りが込められている、と私は思うのです。
一生モノとして推したい飽和潜水対応の名機
さて、ここからはお待ちかねの時計選びです。
飽和潜水用というと無骨な道具を想像しがちですが、実際には名門ブランドが威信をかけて作ったモデルが揃っています。
性能は折り紙付き、しかも長く使える作りの良さを備えたものばかりですから、海に潜らない方の一生モノ候補としても十分に面白い。
私が一本ずつ語りたくなるモデルを、六つ選んでみました。
ロレックス シードゥエラー

飽和潜水用ダイバーズの話をするなら、シードゥエラーを外すわけにはいきません。
1967年に登場したこのモデルは、ヘリウムエスケープバルブを広く知らしめた存在であり、このジャンルの基準を作った一本と言ってよいでしょう。
現行モデルの防水性能は1,220m、つまり4,000フィート。
サブマリーナーの兄貴分とも言える立ち位置で、ケースはひと回り大きく、風防も厚く、腕に乗せたときの存在感がまるで違います。
それでいて、ロレックスらしい端正な仕上げのおかげで、スーツの袖口から覗いても妙に収まりがよいんですよ。
ロレックスはメンテナンス体制が盤石で、古い個体でも面倒を見てもらいやすいブランドです。
性能の裏付け、資産性、そして長く使える安心感。
一生モノの条件をこれほど高い水準で満たすダイバーズは、そう多くないと感じます。
オメガ シーマスター プロプロフ 1200M

画像引用:オメガ 公式サイト
初めてプロプロフを見たとき、私は正直「なんだこの形は」と思いました。
ケースとラグが一体になった独特の塊感、オレンジ色のボタン付きベゼル。
およそ時計らしくない姿ですが、その一つひとつに理由があると知ってからは、すっかり虜になってしまったんですよ。
名前は、フランス語でプロダイバーを意味する「Plongeur Professionnel」から来ています。
防水性能は1,200m、自動のヘリウムエスケープバルブを備え、ベゼルはボタンを押さないと回らない仕組みで、水中での誤操作を防いでくれます。
現行モデルには、精度と耐磁性の高さを第三者機関が認めたマスター クロノメーターのムーブメントが載っており、中身も最新の水準です。
好き嫌いがはっきり分かれる顔ですが、刺さる人には一生モノになる。
そんな潔い一本ではないでしょうか。
セイコー マリーンマスター プロフェッショナル

日本の時計好きとして、ぜひ推したいのがセイコーのプロフェッショナルダイバーズです。
先ほどお話しした「そもそもヘリウムを入れない」流儀の代表格で、バルブに頼らず、ケースの構造そのものでヘリウムの侵入を防ぎます。
なかでも1,000m防水クラスのモデルは、ケースと胴を一体化したモノコック構造を採用し、外装には保護カバーをかぶせた独特の姿をしています。
通称「ツナ缶」と呼ばれるこの形も、深海の過酷な条件から時計を守るための答えなんですよ。
夜光にはセイコー独自のルミブライトを使い、暗い海中でも時刻をはっきり読み取れます。
国産メーカーらしい実直な作り込みと、国内でのアフターサービスの受けやすさは、長く付き合う上で何よりの安心材料です。
派手さはないけれど、信頼で選ぶならこれだと言いたくなる一本。
職人気質の時計好きほど、この良さが分かるはずだと私は思います。
タグ・ホイヤー アクアレーサー プロフェッショナル

タグ・ホイヤーと聞くとモータースポーツを思い浮かべる方が多いでしょうが、ダイバーズの分野でも実力派なんですよ。
アクアレーサー プロフェッショナルのシリーズは、300m防水の標準的なモデルから、本格派の1000m防水モデルまで幅広く揃っています。
なかでも1000m防水の「スーパーダイバー」は、ヘリウムエスケープバルブを備えた正真正銘の飽和潜水対応モデルです。
太い針と大きなインデックス、回転ベゼル、厚いサファイアクリスタルの風防と、プロ仕様の作法をきちんと押さえています。
それでいて、全体の印象はどこか都会的で、仕事の日にも休日にも合わせやすい。
本格派の性能を持ちながら、肩肘張らずに毎日使える。
飽和潜水用の入り口として、また初めての本格ダイバーズとして、とても良い選択肢だと感じます。
オメガ シーマスター プラネットオーシャン

同じオメガでも、プロプロフとはまったく違う個性を持つのがプラネットオーシャンです。
600m防水とヘリウムエスケープバルブを備えながら、デザインはぐっと現代的で洗練されています。
視認性の高い大きなインデックスと針、逆回転防止ベゼル、厚みのある風防と、ダイバーズとしての基本をしっかり押さえた作りです。
現行モデルはマスター クロノメーターの自社製ムーブメントを搭載し、パワーリザーブも長く、強い磁気にもびくともしません。
ステンレスのほかチタンやセラミックなど素材の選択肢も豊富で、自分好みの一本を探す楽しみがあるのも嬉しいところでしょう。
深海に潜れる性能を持ちながら、街で着けても浮かない。
その懐の広さこそ、プラネットオーシャンが長く愛されている理由だと私は思います。
チューダー ペラゴス

画像引用:チューダー 公式サイト
最後は、チューダーのペラゴスです。
ロレックスの弟分という出自を持ちつつ、今やすっかり独自の地位を築いたブランドの、本格ダイバーズの代表格ですね。
500m防水とヘリウムエスケープバルブを備え、ケースとブレスレットには軽くて錆びにくいチタンを使っています。
面白いのはブレスレットのバックルで、バネの力で長さが自動的に伸び縮みし、ウェットスーツの上からでも腕にぴたりと沿ってくれるんですよ。
四角いインデックスと雪の結晶のような針は、チューダーのダイバーズを象徴する意匠でもあります。
自社製ムーブメントは精度の公的認定を受け、パワーリザーブも約70時間と実用的です。
性能、着け心地、そして手の届きやすさのバランスが実に良い。
若い方の最初の一生モノとしても、自信を持って勧められる一本です。
まとめ
飽和潜水用のダイバーズウォッチは、深海で何日も働くプロのために生まれた、時計界でもっとも頼もしい道具の一つです。
ヘリウムという厄介な相手に、バルブで逃がすか、構造で締め出すか。
その答えの出し方に、各ブランドの哲学が表れているのが実に面白いところなんですよ。
ISO 6425やJIS B 7023といった規格の裏付け、桁違いの防水性能、そして裏蓋の小さな刻印。
どれも、普段の生活では使い切れない性能かもしれません。
けれど、使い切れないほどの余裕を持った道具だからこそ、何十年使ってもへこたれない。
それは一生モノの時計を選ぶ理由として、これ以上ないほど説得力のある話だと、私は思うのです。
深海に潜る予定がなくとも、こうした本物の道具を腕に巻いてみる。
そんな贅沢も、大人の時計選びには許されてよいのではないでしょうか。

